傷つけるなら手伝うよはるばるときみを保持してきたDVD
岡野大嗣
これは先日「KOTOVA 渋谷センター街展 お守りになることばを持ち帰るコンビニ」というイベントで出会って「持ち帰ってきた」短歌です。

「ことばのコンビニ」は8月末まで渋谷センター街の中心で、ひと目でそれと分かる感じで開店している。いい短歌とエッセイに出会えまくる、楽しいイベントだった。

最近、人に傷つくことを言われた。
そして私も、また別の人に対して、傷つけることが思わず口をついて出たことがあった。
傷ついたときは何に傷ついたかといえば、「この人は明らかに『私を傷つけよう』という意図を持ってあえてその言い方を選んでいる」と感じられたことに傷ついた(テキストメッセージだったし。送る前に一呼吸置けるじゃん?っていう)。
一方、傷つけたときは、私さっきわざわざ「傷つけることが『思わず口をついて出た』」なんて書いて保身に走りましたが、原因はなんか相手の態度にムカついたからで、でもそれをあえて表明しても良いことは起こらなそうな状況だったのに、その言い方じゃなくて良かったのに、瞬時の判断では「ムカつきを表明する」ほうを選んでしまった(ムカつきを表明したことに相手が気づいてなさそうだったので、事なきを得た)。
「誰かをめちゃくちゃ傷つけてやりたい」と思いながら生きている人は基本的にいないと思いますが、それでも傷つけるようなことを言ってしまうのは、自分をコントロールできなくなるほどの何か異常なことが心の内で起こっているからであって、我々はできるだけその「異常」のほうに注意を向けたほうがいい感じになっていくんだろうな、などと考えていました(「なんで今こんなにムカついた?」の理由を考えるとか。ムカついてると難しいけど)。
話は変わりますが、社会人になりたての頃、ビジネスパーソンの話してる言葉がまったく分からない、と思ったことを強く覚えている。覚えているというか、忘れないようにしている。その言葉の意味や構造を理解していけばしていくほど、なるほどこれは、ビジネスの現場で徐々に最適化されていった、物事を円滑に前に進めるための言葉づかいなのだと分かってくるのですが。
ビジネスでは、受け取る人によって解釈がブレる言葉づかいは「悪」とされることが多いけど、短歌とか小説は、人によっていろんな解釈ができる余白を歓迎するもの。まったく逆の頭の使い方。もし後者の言葉に触れる機会がすっかりなくなったら、これまでそれらを味わい愛でてきた自分の感覚が失われ、人格的なところまで大きく変化してしまうような気がして焦った。だから、社会人なりたての「分からない」感覚は忘れたくなくて、これから先どんなに社会人経験を積んでも、この両極端の言葉づかいに触れ続けたい、絶対に往復し続けるぞ、と強く思ったのだった。そんな頃に読んで面白すぎた本を思い出したので貼ります。
最近だと、AI。AIに対して、前提や説明を省いて「とにかくこれ読んでくれ」というような話しかけをすることが増えている。AIが出力したものに対しても、「うん、なんか違う」みたいな、もし自分が上司にされたら絶対に嫌なコミュニケーションをAIにはしている(AIは健気に応え続ける)。きっと、こういう言葉づかいをAIに対してだけでも続けていたら、その言葉を発するための脳の回路はどんどん太く強固なものになる。私だけじゃなくて世界中の人も同じようなAIとの対話を繰り返すようになれば、いずれ人間どうしのコミュニケーションでエラーが頻発するようになるかも。
いろんな言葉づかいを往復したい。AIに話しかける自分は、人間Aさん、人間Bさんに話しかける自分は、全く違うと感じ続けたい。みたいなことがこの本の中で扱われているっぽいので、興味が湧いて読んでみている。
傷つけるなら手伝うよはるばるときみを保持してきたDVD
岡野大嗣
さて冒頭の短歌ですが、私は「引っ越し」の情景が思い浮かびました。
何かに傷ついてぼろぼろになって身動きが取れなくなっている"私"を、はるばる、手伝いに来てくれる人。引っ越しはいろいろやることが多くて大変、でもとりあえず荷物、まとめないと始まらないよ。ずっと棚に置かれていて、きっともう再生することはないDVDを段ボールに放り込んでくれる人がいる。












































